4.08.2025

拵え物(こしらえもの)

通販で買った音源は特に、最後は棚には残らない。今回かなり処分したけど、残したものには買い方、買った人、買った場への記憶、そのストーリーを思い出すゆえ、大切にしたい、自分の記憶と心に引っ掻き傷を残した作品。だけが、棚には残る。

それ以外の通販などで買ったものは、全て「自己のホメオスタシス」であって「所有欲」「自己を支える、と思い込んでいるだけな拵え物のルーツ」でしかない。

収集、コレクション、などは拵え物の掲げる精一杯のトロフィーでしかなく、外から見れば輝かしい一方で中から見れば空っぽなトロフィーでしかない。

とまぁ「自己のホメオスタシス」などとカッコいい言葉使って書いてみたが、今回レコード売った理由なんて、外遊びし過ぎて「お金」が無くなってきた事を「所有欲」が無くなったなどと言って正当化したいだけなんですけどね、、、。

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4.03.2025

桜について

今年、花が咲いてる桜を見ても何も感じない。ついに僕の感受性そして感情の劣化はここまで来てしまったのか?などと思ったが、いやいや待てよと、先月の静岡県の伊豆諸島へ出かけた道中の高速道路から見える深い山々、兵庫県や三重県のローカル山道を走っている時に見る深い森林の様子、人気の無い山へのハイキング、雄大な植物の群生を見てはっとその世界に吸い込まれるような、植物世界への開かれ、そして、くらくらと目眩が起きるような状態にもなるし、まだまだ感受性は劣化していないと思いたいんだけどなあ、などと考えていた。
んじゃ、なぜ桜には何も感じないのか。なんかねぇ、「やぁ!オレっち桜!今年も綺麗に咲いてるよ〜。」っていうなんとも言えない陽気な部分が苦手なのがひとつ、まぁこれはちょっと冗談。
ええとこれが最重要だけど、桜には原生林や植物群にはありえない「人の気配や意図」をもろに感じる。これは他の「◯◯並木」のような人工的に植えられた全ての植物に言える事だけども、(杉の木含む)人間社会のシステムの枠に収まっている、人間社会によって創り上げられた植物のようで、それゆえとても窮屈に感じてしまう。植物世界は本来もっとカオスだし、カオスだからこその拡がり、そして目眩を生じさせる。
こうすると街が綺麗でしょ!という「人の意図」によって人工的に植えられた桜を見ても、雄大な山々を見た時に感じる「世界への開かれ」が全く無く、ただただ「システムへの閉ざされ」を感じる。その「閉ざされ」空間である人工的な桜並木をありがたがって歩く「システムに閉ざされた」人々を見て、僕たちは「閉ざされの社会」で生きてゆく他ないのか?!などと斜に構えたニヒリズムに陥りプチ絶望するが、いやそうじゃない。同じ「開かれ」を共有する仲間と共に生きてゆけばいい、というのが今のところの自分の中での答え。

「人の気配や意図」と言えば、人に写真を撮られるより、カメラを置いてタイマーセット。3、2、1、ぱしゃり!のほうが、人ではなく(意図していない)カメラに撮られてる感覚、つまり「抜かれる」感覚が無く、カメラという物体に撮られてる気がして、集合写真などでみんな緊張感なく自然体の楽しい写真が撮れやすい気がする。そして、「意図していない」写真の方が、僕としては好みの写真だ。「意図していない」ゆえの瞬間、を写真から感じる。
「意図していない」は言い換えるなら「無意識」が適切なのかなぁ。自分は「無意識」から出てきた表現全般というものにいつも感動しているかもしれない。
無意識な写真と言えば、先日、写真家として活動されておられる釣崎清隆氏の個展へ行った時も、本人に「この写真は釣崎さんがほぼ無意識のうちにシャッター切ったような写真のように見えて特に好きです。」とお伝えしたら釣崎さん自身「気にしてなかったけども、そうですねほぼこれ無意識ですね。」というような会話をしたのを思い出した。

「人の気配や意図」→「意図していない」
これを「意識」ではなく、別角度から掘り下げてみると、「目的と手段」という話になってくる。つまり、「目的」が先行している物事に対しての嫌悪感。「こうすると綺麗だろう!」と人々に訴えかけるようにして植えられた桜は、いわば「目的」が先行している桜であり、それゆえに自分は何も感じないのだろう。あ〜良かった!(花※花というふたり組いたな)自分の感受性が劣化しているわけじゃなかった!しかしまぁ性格及び思考回路には難あり、つまり社会(システム)不適合者、であることは間違いない。
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2025年、初投稿。あけましておめでとうございます。またたまに書いていこう。書かなくなると、何というのかなぁ、良いリズムが無くなるんだよな。まぁいいや。あ、今年から一人称を俺ではなく僕にして書いてみます。ええとそうだなー、長くなりそうだし、なんとなくということで。では今年もよろしくお願いします!