9.10.2025

VISION CONTROL 3

前回の投稿で、「閉ざされの社会」で生きていくしかないのか?斜に構えたニヒリズムに陥るしかないのか、否!という事を書いた。

これに関して補足と追記をしていく。

「閉ざされの社会」で生きていくしかのないのか?否!同じ「開かれ」を共有する仲間と共に生きていけばいい、という現状の答えを前回に書いたが、これは「開かれ」を共有する仲間と共に「閉ざされの社会」から一緒にお先に脱出しちゃおうまぁ後は知らないけど、という、これすらもニヒリズム(メタ的に)の罠に陥っていると言える。

このメタ的ニヒリズムのマトリョーシカの罠に僕らはいつまでも捕らえられてしまうのか?

それへの対処としては「閉ざされの社会」から脱出すればいい、が、いつでも帰られる自分のルーツを持つ。「閉ざされ」と「開かれ」の境界、淵に立ち続けるという事。<根をもつこと 翼をもつこと> これは見田宗介(=真木悠介)先生の言葉。物事を一面で捉えるのではなく、必ず反対側からも捉える。その上で両方の視座を結合すると、新しい第三の視座が生まれる。これが見田宗介先生の仰る「高原を見晴らす」という事であり、今の自分の思考全体を包み込んでいるような教えとなっている。自分がまだまだ未熟で、書いてる事は立派にみえても体験が伴っていないため、とても抽象的な捉え方しかできていない。これからの自分はもっと体験と実践をしていく必要があると思っている。


少しベクトル違いの脱線をするが、ニヒリズムといえばね。自分も随分と長い間ニヒリズムの落とし穴に落ちてしまっていた。

それは文化的コンテンツ(本、映画、音楽、絵画など)を「分かってる、知ってる」という自分への嘘や誤魔化し、それによって得られるその場限りの見栄と偽物のプライドゆえに、他者に向けた斜に構えた態度である。

それが、今年のはじめ、そういった虚構のプライドの粉砕、そしてニヒリズムという名の落とし穴からの脱出(救済!)を実感したエピソードがあった。

映画『シン・レッド・ライン』テレンス・マリック監督、を今年のはじめに観た。正確には人生2回目の鑑賞。この2回目というのが重要で。とても仲の良い友人から「藤井君、シン・レッド・ライン観た方が良いよ!」と言われた時に自分は、高校生くらいのときに1度観た事あるんですよねぇ、と言って、その友人からは「それでも今の感性でもう1度観た方がいいと思うけどなぁ。」と言われていた、というエピソードがあって。

それで今年はじめに人生2回目の『シン・レッド・ライン』を鑑賞。映画の内容はさておき、自分の「分かってる、知ってる」という嘘や誤魔化し、他社への見栄と偽物のプライドがいかに愚かな事なのか、カッコ悪い事なのか、といった事をもろに喰らって、完全に貫かれ、串刺しになってしまった。映画鑑賞後は、その愚かなプライドが粉々に粉砕し、涙がぼろぼろと溢れた。(それをきっかけにして、最近映画見てもよく泣くようになった。前まで全然泣けなかったのに。これはただおっさんになっただけか!?笑)その後友人には電話で感謝を伝えたけれども、改めてここでも感謝を伝えたいと思います。いつもありがとうございます。