9.16.2026

この世の全ての争いを無くす方法

 「憎しみ」

悪口、陰口、差別、いじめ。

戦争、虐殺。


巷では「男って」や「女って」のような2項図式の対立が蔓延っている。

それだけではなく、あそこの国は、あの人種は、あの界隈は、あいつらは、、、など。

もっと射程範囲を狭めていくと最終行き着く先はだいたいこれ。

「あの人は、、、」


悪口、陰口を誰かに話して心のモヤモヤを発散させるのは決して悪いことではない。このクソ社会を生きる為のひとつの発散方法でありサバイヴ術だと思う。


ただし、その「憎しみ」の射程距離と射程範囲を間違えてしまうと争いが起こる。


「あの人は」を心を許した家族やパートナー、親友ではなく、もっと射程距離を長くした大きな声で(クラスや教室、職場、SNSなど)話せば、争いやイジメを生むトリガーになる。憎しみを負う対象はたった一人。それは孤独を強いて最悪の結果となる。


次に「あの人は」より少しだけ射程範囲を拡げた「あいつらは」で考えても同じ事。

「あの人は」よりも範囲が拡がってる分、憎しみの対象範囲が拡がっているゆえに「憎しみ」が分散されて軽くなる。


もっと範囲を拡げていくと。「あの人種は、あの国は」になる。

より憎しみは分散する。

ここで重要なのは、分散するから良き事、というわけではない。

が、射程範囲が広い分、「憎しみ」の対象者は、個人ではないので孤独にはなりにくい。ふ〜ん別に気にならないけどね、で済ませる対象者もいるだろう。


射程範囲をもっと拡げていく。

「男って」

「女って」

今の世の中、大多数の人がこういうだろう。

「男と女で単純に分けて話すのよくないよ。」

でも考えてみてほしいけども、射程範囲を拡げて拡げて拡げまくって対立を作ると「男と女」に最終は行き着く。

そしてそれは本当に「対立」なのか。「憎しみ」ゆえなのか。

男と女、別のコスモロジー、で生きていると考える。分かり合えない、だからこそ、分かり合おうとし続け、アメーバのように溶け合おうとする。それでも分かり合えない、だからこそお互い永遠に溶け合おうとし続ける。

溶け合い、共生、そこに争いは生まれないだろう。


2項対立図式で考えてしまう我々の本能・性を否定するのではなく、それを踏まえた上で、より「射程範囲」を拡げた2項対立図式にすれば、この世の全ての争いは無くなるのではないかと思う。


男と女の争いだけなら、かわいい男女の喧嘩で終わらせられるでしょ!要はそーいうこと。

だから巷で溢れる男女の2項対立図式、「男って」「女って」くらいの射程範囲で言い合いしてるくらいが一番平和なんじゃーないかなー。

ってこの前、話してたから、忘れないように備忘録。でもまだあまりまとまってないけども。


追記

あくまで持論の展開という前提の文章で堅苦しいので、ここ(Blog)へ書いていく。


「その人じゃないといけない理由」のように「理由」や「目的」が先にあるような関係というのはとても寂しく本質的な愛ではない。

「理由や目的なんてない、だけどあなたを愛したい」と思う事が人を好きになるということ。何故、この人が好きなのか?どこがいいの?「分からない、言葉にならない、だけど好き」が本質だと感じる。


だからこそ愛する人へは無償の「贈与」を贈りたくなる。

これこれやってあげたから、これをして欲しいという「交換」のような条件先行型ではなく、あなたに「贈与」を居ても立ってもいられず送りたい。ただそれだけのシンプルな事。


そして「贈与」された側は、居ても立ってもいられず「贈与」を送り返す。「贈与」返し。「贈与の交響」


それって結局「交換」のような条件先行型と同じように見えるが、「理由や目的」が、そうした行動より先にあるか無いか。意識の働きなので捉えにくいし、頭の中が迷路になりやすい。でも本当はとてもシンプルな事。


愛とは。


「理由や目的なんてない」心や意識の働きが「愛」であるならば、

「理由や目的なんてない、だけど側にいる人、贈与したくなる人」が「愛する人」である。


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追記の追記

できるだけ削ぎ落して書いた文章なので、ちょっと抽象的すぎるかもしれないけども。自分の大切な人へ捧げたい。

その人といつまでも一緒に踊りたいと思う。