9.16.2026

この世の全ての争いを無くす方法

 「憎しみ」

悪口、陰口、差別、いじめ。

戦争、虐殺。


巷では「男って」や「女って」のような2項図式の対立が蔓延っている。

それだけではなく、あそこの国は、あの人種は、あの界隈は、あいつらは、、、など。

もっと射程範囲を狭めていくと最終行き着く先はだいたいこれ。

「あの人は、、、」


悪口、陰口を誰かに話して心のモヤモヤを発散させるのは決して悪いことではない。このクソ社会を生きる為のひとつの発散方法でありサバイヴ術だと思う。


ただし、その「憎しみ」の射程距離と射程範囲を間違えてしまうと争いが起こる。


「あの人は」を心を許した家族やパートナー、親友ではなく、もっと射程距離を長くした大きな声で(クラスや教室、職場、SNSなど)話せば、争いやイジメを生むトリガーになる。憎しみを負う対象はたった一人。それは孤独を強いて最悪の結果となる。


次に「あの人は」より少しだけ射程範囲を拡げた「あいつらは」で考えても同じ事。

「あの人は」よりも範囲が拡がってる分、憎しみの対象範囲が拡がっているゆえに「憎しみ」が分散されて軽くなる。


もっと範囲を拡げていくと。「あの人種は、あの国は」になる。

より憎しみは分散する。

ここで重要なのは、分散するから良き事、というわけではない。

が、射程範囲が広い分、「憎しみ」の対象者は、個人ではないので孤独にはなりにくい。ふ〜ん別に気にならないけどね、で済ませる対象者もいるだろう。


射程範囲をもっと拡げていく。

「男って」

「女って」

今の世の中、大多数の人がこういうだろう。

「男と女で単純に分けて話すのよくないよ。」

でも考えてみてほしいけども、射程範囲を拡げて拡げて拡げまくって対立を作ると「男と女」に最終は行き着く。

そしてそれは本当に「対立」なのか。「憎しみ」ゆえなのか。

男と女、別のコスモロジー、で生きていると考える。分かり合えない、だからこそ、分かり合おうとし続け、アメーバのように溶け合おうとする。それでも分かり合えない、だからこそお互い永遠に溶け合おうとし続ける。

溶け合い、共生、そこに争いは生まれないだろう。


2項対立図式で考えてしまう我々の本能・性を否定するのではなく、それを踏まえた上で、より「射程範囲」を拡げた2項対立図式にすれば、この世の全ての争いは無くなるのではないかと思う。


男と女の争いだけなら、かわいい男女の喧嘩で終わらせられるでしょ!要はそーいうこと。

だから巷で溢れる男女の2項対立図式、「男って」「女って」くらいの射程範囲で言い合いしてるくらいが一番平和なんじゃーないかなー。

ってこの前、話してたから、忘れないように備忘録。でもまだあまりまとまってないけども。


追記

あくまで持論の展開という前提の文章で堅苦しいので、ここ(Blog)へ書いていく。


「その人じゃないといけない理由」のように「理由」や「目的」が先にあるような関係というのはとても寂しく本質的な愛ではない。

「理由や目的なんてない、だけどあなたを愛したい」と思う事が人を好きになるということ。何故、この人が好きなのか?どこがいいの?「分からない、言葉にならない、だけど好き」が本質だと感じる。


だからこそ愛する人へは無償の「贈与」を贈りたくなる。

これこれやってあげたから、これをして欲しいという「交換」のような条件先行型ではなく、あなたに「贈与」を居ても立ってもいられず送りたい。ただそれだけのシンプルな事。


そして「贈与」された側は、居ても立ってもいられず「贈与」を送り返す。「贈与」返し。「贈与の交響」


それって結局「交換」のような条件先行型と同じように見えるが、「理由や目的」が、そうした行動より先にあるか無いか。意識の働きなので捉えにくいし、頭の中が迷路になりやすい。でも本当はとてもシンプルな事。


愛とは。


「理由や目的なんてない」心や意識の働きが「愛」であるならば、

「理由や目的なんてない、だけど側にいる人、贈与したくなる人」が「愛する人」である。


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追記の追記

できるだけ削ぎ落して書いた文章なので、ちょっと抽象的すぎるかもしれないけども。自分の大切な人へ捧げたい。

その人といつまでも一緒に踊りたいと思う。


7.11.2026

映画感想 1

最近見たやつ。Blogのネタ思いつかないからFilmarksからのコピペでお茶濁しスタイル。

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『急に具合が悪くなる』

内(社会)に閉ざされているマリー=ルー。

外(世界)に開かれているが、開かれ"だけ"ゆえの外(世界)へ閉ざされている真理。

その内と外のあわいを溶かすための4本の柱がユマニチュードの教えである「見る・話す・触れる・立つ」。それによって他者と溶け合う。足を触り合いっこしながらの「交響」。

溶け合うマリー=ルーと真理、そこから周囲へ感染していく「交響」。


タバコ吸いながらいつも悪態ついてる車椅子乗ってるおばあちゃんと笑い合ってるシーン、最高!!!そこでマリー=ルーは無邪気に笑っている。


『大いなる陰謀』

外側からどれだけ正論を語ろうとも。(若者や子供たちを戦争に行かせてはならない!など)じゃぁお前の行動は?というロバート・レッドフォード監督から僕らに対しての批評的メッセージ。ありがとうございます背筋が伸びました。

『グッド・ウィル・ハンティング』と是非一緒に観ましょう!

2026.6.25追記

友達に送った文章コピペ。

教授が頭の良い生徒に言うわけ。

君は、この社会や政治家たちに、こんな社会や政治はクソっていうし、戦争がいかにクソでその戦争をしようとするクソ政治家どもを、論理的に語って君の正義を主張するけども。

だけども、君は、彼ら(戦場にいる兵士たち)のように勇敢に行動しているのかい?君が語っているのは、安全な空間で机上の空論を話しているに過ぎない。君がfuckと言っている政治家と君は、本質では同じじゃないのかい?

三島由紀夫の思想に通ずるところある映画だったなあ。頭悪い人は、この映画や三島由紀夫の晩年の思想などを聞いて、「右翼っぽい」っていうかもしれないけど。左や右とかそういう話じゃないんだよな。君は偉そうに語っているだけで行動しているかい?っていう問い。

これは自分自身にもとても刺さるテーマだし、自分も陥りがち(行動力のない自分!)な罠(頭でっかち、知識だけあるけど行動してない、体験してない、リアルをしらない)、だと思うので。とてもいい映画だったな。

さすがの文章力!

「イデオロギーではなく、大切な人を守る為に戦うことの価値」


『グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』

・頭でっかちの知識量ではなく体験が全て。

・「素直になる」のはとても難しいようで、実はとても簡単なこと。


『プロジェクト・ヘイル・メアリー』

人類の為には死ねないけど、君の為なら死ねる

「ここではない遠いどこかで」

(カラオケシーン最高!)

人に力がみなぎるのは共同幻想(人類)ではなく対幻想(あなた)


『天安門、恋人たち』

街の熱気、学生寮での群衆の熱気、デモの熱気、そして恋人たちの熱。

そして、その熱の中で人は孤独を感じ、孤独は次第に人の表情を曇らせていく。


『シラート』

映画の世界観としてのレイヴとダンスミュージックの扱い、及び監督の認識が、あまりに「常識人」過ぎると感じた。

「常識人」がゆえ、優等生的な映画で、随所に見たことあるようなモチーフが散りばめられているが、優等生ゆえそこに個性と過剰さが無い。

(もっと過剰なくらい音を延々鳴らして映画館が焦るくらいの事をしてほしい!だって映画の材料としてレイヴ選んでんだぜ!!そしたら個性出まくる思います!)

自身は遊び人じゃなくてガリ勉くんなんだけど、こういったカルチャーに憧れているひとりの少年が作った作品、のように勝手に妄想してこの映画を観るといいかもしれない。しないけど。


『2001年宇宙の旅』

AI暴走!サイケデリック!ノイズ&アンビエント!

これを観たら最後、ぐるぐるぐるぐるめまいを引き起こし陰(AIを道具とした未来)と陽(骨を道具とした過去)の全てがひとつに重なり合う。


もう最初っからヤバい。始まってんのか始まってないのか分からない。やっぱり始まってた。なんか凄まじいものが始まるぞっていうワクワク感を真っ暗な映像だけで開始3分で全部もっていっちゃう。しびれました!天才です。


親が子供(小学生くらいか?)と一緒に観るべき作品No.1!宇宙やべー!ってなります!


『マディソン郡の橋』

「ここではないどこかへ」的なモチーフは恋愛にとって普遍ですね。

家族での食事シーンでラジオから流れるBaby, I'm Yours、大好きな曲です。

https://youtu.be/YPy_At_9


『オールド・オーク』

・昔はあった共同体が失われ内から湧き上がるパワーを無くした人びと。

・殺戮、破壊により共同体から強制的に疎外された人びと。


お互い、居場所を無くした人びと。

その人びとがフュージョンによって新たな共同体となる。ごく自然に。お上のルールに決められたわけではなく人びとのフュージョンによってあくまで自然に。

『バクラウ 地図から消された村』のモチーフを内包しつつ、今この乱世の時代の問題を引き受けつつ、その先の希望を描いていると感じました。


『共喰い』

いつみたか忘れましたが、その時書いたこと。↓


父から子への(醜悪なるものの)伝承→同じように女を喰う→共喰い(共喰い 男Ver)

これは分かりやすいモチーフですが、

もうひとつ、女が男を喰う。もあって。

母が父を(醜悪なる伝承を断ち切るために)殺す、彼女が菅田将暉を騎乗位で犯して初めてのエクスタシーを感じる。(共喰い 女ver)

という女の共喰いモチーフも表裏一体として、この映画にはある。

つまり、父と母と息子と彼女、登場人物4人が「共喰い」関係にある。


似たモチーフの映画だと『狗神』、『そこのみにて光輝く』もオススメです。

6.04.2026

突然インターホンが鳴った話

 さっき(夜20時半ごろ)突然インターホンが鳴った。え!ってなって正直焦り散らかしたというか、だってさ~普段そんなアポ無しで自分ちに誰かがインターホン押すなんてない(来客あるかどうかはこの頃はもう大体わかる仕組みに各自なってるでしょう世の中が)ゆえ、びっくりするでしょう普通に20時半頃に家でゆっくりしてる時にインターホンなったら

まぁとにかくお話聞いてたらその方は町内会の会長さん(60代くらいの女性)だった!で、確かに住んでる団地のアパートに張り紙で「いついつから町内会そのものが無くなってましたが、この度、色んないたずらや不審者など風紀が悪くなってきたようなので町内会復活させます!」といった内容が張られていた事を思い出した。で、それの挨拶で町内会長さん、なんと、、、1件ずつ挨拶していかれるらしく、僕の部屋はたまたまスタートの部屋だったので初めての挨拶だったそうで。(くたびれるなあ~ご苦労様です。)とにかく、なんで町内会復活させることにしたんすか、って事聞いてみたら、簡潔に言うと「風紀が悪くなってきたから~」と言っておられて、そうかそうか、たしかに仰ってるように、たむろする若者だったりたしかにちょくちょく見かけるなとは思っていたし落書きやらなんやら、かわいいもんだけど、まぁたしかに前より風紀なんか悪くなっているのかな風紀とか秩序とかそれもなんかもうくだらないとは正直思うけど、、、ただお年寄りからすると怖さ感じたりするのも共感するしなぁ、みたいな思って。とにかく最初に書いたように、僕もまぁ急なインターホンでの来客だったのでびっくりしてるのが先で、動揺してるから笑、なんかソワソワしててあんまちゃんと目と目でお喋りできてなかったかなあみたいな。

でね~そういうわけで、少し後悔もして。ひとりでこうやって考えてたんすけど。あの町内会長さんすげー人だし、立派な人だな~ってしみじみ感じて。だってお母さんひとりで団地の1件1件インターホン押して挨拶していくんだよ。いろんなひといるからさぁ、出てきてくれないだけならまだしも、怖い人もいるだろうし、それを20時とか21時とかに突撃アポ無しインターホンだよ、かなり勇気いるよな~これ読んでる君は同じ事できる?!ってなって、マジであのお母さん凄い勇気のある人だなとなって。風紀がどうとか若者がどうとか、そこらへんはぶっちゃけ僕は共感できないというか、そういう子たちを敵とみなして排除するような構えでの共同体(町内会)ではなくて、その子たちを包摂するようなお互いが溶け合って新しい共同体を作れるような構えを応援したいし自分も参加したいと思うんだけど、お母さんの話を聞いてたらそんな感じじゃーなかったんだけど、ただそれはとにかく、僕はそのお母さんの「勇気」に文字通り勇気づけられたし、そんなカッコいい、すげー優しい素直でまともな人だな~って感じる人ともっと直接話したいなあとも思ったので、あとからひとりでよくよく考えてたけど町内会入ろうと思うので今度僕から町内会長さんの部屋に挨拶しにいこう。

4.14.2026

VISION CONTROL 4

感情が動かない、とはどういうことか。
ここ最近、仲の良い友人からも言われるし、自分自身でそう感じる。「藤井は感情が動かない、いつもニュートラル過ぎる。」ということ。感情が動かない、心が揺れにくい、というのは「良きこと」「悪しきこと」どちらとも捉えられる。が、今回は「悪しきこと」として書いていく。
多くの現代人は少なからず<社会>で生きていく為の自己精神防衛の為に、自身に降りかかる様々な出来事に柔軟に対応するため、心が揺れないよう心をわざと「閉ざす」。これが<社会>での生き方であり、成長、大人になる、「良きこと」のように思われているふしがある。それは自分もそうで、心をわざと「閉ざす」事で、この<社会>でうまく生きるための処世術を無意識なのか意識的なのか、残念だけど心が揺れないような生き方を身に着けてしまっている。

なぜそうなってしまうのか、これっていつからなのか?は自分の事を話すと分かりやすい。僕の仕事は住宅設備機器の修理やクレーム対応。半分は技術職、もう半分は接客業。クレームが分かりやすいけど、接客業は基本的に「人の感情を受け止める仕事」である。そしてクレームというのは「負の感情」の事が当然多い。これを誠心誠意で受け止め続けるというのは不可能というか、毎日毎年何年もいろんな人間の負の感情を受け止め続ける、にはこちらがある程度防御して自分を守る必要がある。それが上に書いた、心をわざと「閉ざす」であり、いちいち心を揺らさない、ニュートラルであるようにする、の一番の理由だと思う。
これは「仕事(ブルシットジョブ!)」だから、いいものの、プライベートの人間関係において、感情が動かないやつ、ニュートラル過ぎるやつ、ってどうなの!?何考えてるのか分からない、達観し過ぎ、いつも安全圏ポジションにいるように見える、感情が無い人間ってAIみたい、みたいに思うでしょう。
じゃぁその自分に合った処方箋は?と考えると、「建前と本音」の図式を使うしかないのではないかなぁ、、、。つまり、このつまらない<社会>で生きていく為、建前の会話をし心の秩序を保つ。そしてプライベートの人間関係では本音で話す。(これがねぇ難しいんだなかなかできない。相手との関係値もあるし。そもそも関係値ってなんだ、数値化できるもんじゃないだろうし。)
この「本音」側の視座から言えば、建前側に「なりすます」事によって、<社会>をなんとか生きていく。という気持ちを持って生きていく、というメタ的視座を持つといいのかな。
と、ここまで偉そうに言葉にして書いたけど。結局こんなん言葉にしている"だけ"で、偉そうぶりたいだけなんだよね。そんなことより面と向かって相手と本音ベースで話すのってほんと難しいよねえ。それは自分にまだ「感情」が残っているから、なのかなあ。
うーん、ひとまず迷路になりそうなのでいったんここまで。

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↑ここまで事前に書いてたんだけど。
最近、似たような話を友人と話していて。ひとつ、ひらめいたこと。メモ代わりに。おまけ。
色んなモチーフを描く映画を観たり、原作「風の谷のナウシカ」を読んだり(感情のカオス!ナウシカ!)、あまり人には言えない事やったり、まぁとにかくいろいろ、なんやかんやしてても感情が揺れる事があまりなく。うーん困ったなあ。みたいな。
で、最近、新名神高速の伊勢湾岸道を走っていて、ひためいた!!
長島スパーランドのジェットコースター!僕はねぇ、人生でほぼジェットコースターを乗ったことがない。ビビりなので。なので長島スパーランドのジェットコースターも当然経験無いわけで、あの強烈なジェットコースターを乗って大絶叫する。完全に荒治療な処方箋かもしれないけど、ジェットコースター → バンジージャンプ → スカイダイビング。この流れで大絶叫と生死の境界線を行き来することによって感情の劣化からの回復及び、内からエネルギーが湧き出すきっかけになるのではないか。
なんて事を友人と話していた。くだらないかもしれないけど、結構いいアイディアなんじゃないかなと思っている。どうかなあ?

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最後に。以前、兵庫県加西市が誇るショッピングモール、アスティア加西の屋上を使っためちゃくちゃ楽しいイベント、Kasai Rooftop Party vol2に出演されておられたLea Thomasさんのアルバム収録曲のなかで一番好きな曲。
またなんか思いついたら、こうやってだらだら書きます。

3.31.2026

『現代戦争論 ロシア・ウクライナから考える世界の行方』

お久しぶりです。すぐ本題。

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 深堀TVの小泉悠氏をゲストに迎えた『現代戦争論』をテーマにした議論で、俯瞰した戦争観ではない生々しい情報を聞き、改めて震え上がって怖くなってしまった。

動画の後半は有料パートだけど、前半部分だけでも聞いてほしいし、著者の新書『現代戦争論 ロシア・ウクライナから考える世界の行方』も是非。

YouTubeリンク↓

小泉悠氏生出演!『現代戦争論』(2026年3月16日20:00~生放送・前半パート)

首都モスクワや都市圏の人々と地方での認識のギャップ。地方でこれだけの死者数が出ている戦争なのにも関わらずロシア内で反戦キャンペーンが少ない理由は、僕らの一般認識ではふわ~っとロシア政府による情報操作のせい!などと思っていたけど実態は違った。「地方で起こっているだけの小さな衝突」くらいの認識で多くのロシアに住む人々は感じている。そして「遠くで起きている戦争」という認識で、露宇戦争を日本に住む僕らも感じている。

とても悲しい現実だけど、戦争で死んでいる兵隊の多くはモスクワのような都会ではなく地方からの志願兵。地方で仕事が無いがゆえ家族のため金のため仕方がなく兵隊となる。そして多くの兵隊が死んでいく。生まれたところ(場所、親)によって「格差」ゆえ「格差」に張り付けられ「格差」に殺される。

この「格差」に殺されるという構図、既に僕たち日本人も日々の生活の中で感じ取っていると思う。(何でもかんでも高すぎるって。マジでもう嫌になるほど金が無い!)乱世となっている今、僕らの世代、そして次の世代(息子たち!)はこの逃げ場のない「格差」に殺される事になるんだろうか。

先日、友達と話していた。人類の月への移住計画、という近未来の話。

月への移住は金持ちが行くわけではない。私たちが開拓民として月を耕しに行くのが先だよ。金持ちは豊かな地球に残り続ける。都会から地方への疎外。地球から月への疎外。

10.26.2025

INFRAMINCE Ⅱ

前作◆

.

今作 Ⅱ

INFRAMINCE Ⅱ アンフラマンス Ⅱ

「物質界にいながら、可能なかぎり非物質界に近い、その寸前に留まることを指した言葉。現実と非現実の境界の薄さ(厚さ)を測る単位。」





tracklist
#1 Old Softy - Heavy Fog
#2 せせらぎ
#3 Yasmin Williams - I Wonder (Song for Michael)
#4 Indigo Sparke - Colourblind (Castle Demo)
#5 M.SAGE - River Turns Woodley (for Frogman)
#6 C418 - Click
#7 Fluorescent Heights - Underwater Sequence
#8 Balam Acab - Big Boy
#9 Airhead - Autumn
#10 Steve Good - Folding Inwards

2025年10月制作

9.10.2025

VISION CONTROL 3

前回の投稿で、「閉ざされの社会」で生きていくしかないのか?斜に構えたニヒリズムに陥るしかないのか、否!という事を書いた。

これに関して補足と追記をしていく。

「閉ざされの社会」で生きていくしかのないのか?否!同じ「開かれ」を共有する仲間と共に生きていけばいい、という現状の答えを前回に書いたが、これは「開かれ」を共有する仲間と共に「閉ざされの社会」から一緒にお先に脱出しちゃおうまぁ後は知らないけど、という、これすらもニヒリズム(メタ的に)の罠に陥っていると言える。

このメタ的ニヒリズムのマトリョーシカの罠に僕らはいつまでも捕らえられてしまうのか?

それへの対処としては「閉ざされの社会」から脱出すればいい、が、いつでも帰られる自分のルーツを持つ。「閉ざされ」と「開かれ」の境界、淵に立ち続けるという事。<根をもつこと 翼をもつこと> これは見田宗介(=真木悠介)先生の言葉。物事を一面で捉えるのではなく、必ず反対側からも捉える。その上で両方の視座を結合すると、新しい第三の視座が生まれる。これが見田宗介先生の仰る「高原を見晴らす」という事であり、今の自分の思考全体を包み込んでいるような教えとなっている。自分がまだまだ未熟で、書いてる事は立派にみえても体験が伴っていないため、とても抽象的な捉え方しかできていない。これからの自分はもっと体験と実践をしていく必要があると思っている。


少しベクトル違いの脱線をするが、ニヒリズムといえばね。自分も随分と長い間ニヒリズムの落とし穴に落ちてしまっていた。

それは文化的コンテンツ(本、映画、音楽、絵画など)を「分かってる、知ってる」という自分への嘘や誤魔化し、それによって得られるその場限りの見栄と偽物のプライドゆえに、他者に向けた斜に構えた態度である。

それが、今年のはじめ、そういった虚構のプライドの粉砕、そしてニヒリズムという名の落とし穴からの脱出(救済!)を実感したエピソードがあった。

映画『シン・レッド・ライン』テレンス・マリック監督、を今年のはじめに観た。正確には人生2回目の鑑賞。この2回目というのが重要で。とても仲の良い友人から「藤井君、シン・レッド・ライン観た方が良いよ!」と言われた時に自分は、高校生くらいのときに1度観た事あるんですよねぇ、と言って、その友人からは「それでも今の感性でもう1度観た方がいいと思うけどなぁ。」と言われていた、というエピソードがあって。

それで今年はじめに人生2回目の『シン・レッド・ライン』を鑑賞。映画の内容はさておき、自分の「分かってる、知ってる」という嘘や誤魔化し、他社への見栄と偽物のプライドがいかに愚かな事なのか、カッコ悪い事なのか、といった事をもろに喰らって、完全に貫かれ、串刺しになってしまった。映画鑑賞後は、その愚かなプライドが粉々に粉砕し、涙がぼろぼろと溢れた。(それをきっかけにして、最近映画見てもよく泣くようになった。前まで全然泣けなかったのに。これはただおっさんになっただけか!?笑)その後友人には電話で感謝を伝えたけれども、改めてここでも感謝を伝えたいと思います。いつもありがとうございます。


4.08.2025

拵え物(こしらえもの)

通販で買った音源は特に、最後は棚には残らない。今回かなり処分したけど、残したものには買い方、買った人、買った場への記憶、そのストーリーを思い出すゆえ、大切にしたい、自分の記憶と心に引っ掻き傷を残した作品。だけが、棚には残る。

それ以外の通販などで買ったものは、全て「自己のホメオスタシス」であって「所有欲」「自己を支える、と思い込んでいるだけな拵え物のルーツ」でしかない。

収集、コレクション、などは拵え物の掲げる精一杯のトロフィーでしかなく、外から見れば輝かしい一方で中から見れば空っぽなトロフィーでしかない。

とまぁ「自己のホメオスタシス」などとカッコいい言葉使って書いてみたが、今回レコード売った理由なんて、外遊びし過ぎて「お金」が無くなってきた事を「所有欲」が無くなったなどと言って正当化したいだけなんですけどね、、、。

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4.03.2025

桜について

今年、花が咲いてる桜を見ても何も感じない。ついに僕の感受性そして感情の劣化はここまで来てしまったのか?などと思ったが、いやいや待てよと、先月の静岡県の伊豆諸島へ出かけた道中の高速道路から見える深い山々、兵庫県や三重県のローカル山道を走っている時に見る深い森林の様子、人気の無い山へのハイキング、雄大な植物の群生を見てはっとその世界に吸い込まれるような、植物世界への開かれ、そして、くらくらと目眩が起きるような状態にもなるし、まだまだ感受性は劣化していないと思いたいんだけどなあ、などと考えていた。
んじゃ、なぜ桜には何も感じないのか。なんかねぇ、「やぁ!オレっち桜!今年も綺麗に咲いてるよ〜。」っていうなんとも言えない陽気な部分が苦手なのがひとつ、まぁこれはちょっと冗談。
ええとこれが最重要だけど、桜には原生林や植物群にはありえない「人の気配や意図」をもろに感じる。これは他の「◯◯並木」のような人工的に植えられた全ての植物に言える事だけども、(杉の木含む)人間社会のシステムの枠に収まっている、人間社会によって創り上げられた植物のようで、それゆえとても窮屈に感じてしまう。植物世界は本来もっとカオスだし、カオスだからこその拡がり、そして目眩を生じさせる。
こうすると街が綺麗でしょ!という「人の意図」によって人工的に植えられた桜を見ても、雄大な山々を見た時に感じる「世界への開かれ」が全く無く、ただただ「システムへの閉ざされ」を感じる。その「閉ざされ」空間である人工的な桜並木をありがたがって歩く「システムに閉ざされた」人々を見て、僕たちは「閉ざされの社会」で生きてゆく他ないのか?!などと斜に構えたニヒリズムに陥りプチ絶望するが、いやそうじゃない。同じ「開かれ」を共有する仲間と共に生きてゆけばいい、というのが今のところの自分の中での答え。

「人の気配や意図」と言えば、人に写真を撮られるより、カメラを置いてタイマーセット。3、2、1、ぱしゃり!のほうが、人ではなく(意図していない)カメラに撮られてる感覚、つまり「抜かれる」感覚が無く、カメラという物体に撮られてる気がして、集合写真などでみんな緊張感なく自然体の楽しい写真が撮れやすい気がする。そして、「意図していない」写真の方が、僕としては好みの写真だ。「意図していない」ゆえの瞬間、を写真から感じる。
「意図していない」は言い換えるなら「無意識」が適切なのかなぁ。自分は「無意識」から出てきた表現全般というものにいつも感動しているかもしれない。
無意識な写真と言えば、先日、写真家として活動されておられる釣崎清隆氏の個展へ行った時も、本人に「この写真は釣崎さんがほぼ無意識のうちにシャッター切ったような写真のように見えて特に好きです。」とお伝えしたら釣崎さん自身「気にしてなかったけども、そうですねほぼこれ無意識ですね。」というような会話をしたのを思い出した。

「人の気配や意図」→「意図していない」
これを「意識」ではなく、別角度から掘り下げてみると、「目的と手段」という話になってくる。つまり、「目的」が先行している物事に対しての嫌悪感。「こうすると綺麗だろう!」と人々に訴えかけるようにして植えられた桜は、いわば「目的」が先行している桜であり、それゆえに自分は何も感じないのだろう。あ〜良かった!(花※花というふたり組いたな)自分の感受性が劣化しているわけじゃなかった!しかしまぁ性格及び思考回路には難あり、つまり社会(システム)不適合者、であることは間違いない。
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2025年、初投稿。あけましておめでとうございます。またたまに書いていこう。書かなくなると、何というのかなぁ、良いリズムが無くなるんだよな。まぁいいや。あ、今年から一人称を俺ではなく僕にして書いてみます。ええとそうだなー、長くなりそうだし、なんとなくということで。では今年もよろしくお願いします!

11.22.2024

雑記集7

自分の髪の毛は気持ち悪くないのに、その自分の髪の毛が抜けた場合、自分の髪の毛なのにも関わらず気持ち悪さが出る。自分のものでは無くなった抜け毛のビジュアルの気持ち悪さ。市民プールの脱衣室の生理的な気持ち悪さに通ずるかもしれない。まぁ自分は常時坊主なので、これは人から聞いて妙に納得した話。髪が抜けると自分のものではなくなる。
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「人に迷惑をかけないように」の迷惑とは何か。そしてそれを迷惑(不快)と感じるかどうかは受け手側の感情でしかないわけで。

↑もっと考察してアウトプットしていきたい。また後日。

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はじめまして。お仕事何されてるんですか。趣味は?特技は?ええ、そんなお見合いパーティーみたいな分かりやすいプロフィール欄がないと会話できないのか。それは本当にその人と同じ空間同じ時間を共有して会話しようとしているのか。
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殺人犯の親に自己を重ねる。

職場で昼飯時、NHKにて兵庫県で起きた小学生を2人殺害した服役中の男が別の事件にも関与していた、というニュースをやっていた。

そのニュースを受け職場の人達は「こんなやつ死んでほしい」というような事を言っていた。直球ストレート、俺も同じ年代の子供がいるからわからないでもない。が、それを言っているポジションがいつもあくまでも被害者からのポジションでしかなくて。殺された子供の親への遺族への感情移入、だけで終わってる。俺たちは加害側になりうる場合も当然ある。つまり、殺人犯の親になって考えてみる、という事。

「考えてみる」とは書いたけど、「考えてしまう」かなあ。

以前みた映画「ニトラム」でも主人公ではなく主人公の父親にとても感情移入していた。

https://kuromura.blogspot.com/2024/10/nitram.html

↑この、考えていくなかで、その思考を書いていくつもりでおったけど、うーんなんか集中力が続かなくなったのでまた後日改めて。

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全体的に中途半端な内容となってしまった。

最近聴いてよかったやつ貼ってお茶を濁す。ストーリー性が良し。


11.07.2024

VISION CONTROL 2

前回のVISION CONTROLはこちら。(こう書くと海外ドラマの最初っぽくなるな。)

7時に起きて仕事モードとなる。平日がだいたい19時に仕事終わるとする。

そしたら大体12時間が仕事モードとする。1日24時間の約半分、それを長期目線で見るならば人生の約半分は仕事の時間となるな、という話題となった。んじゃー果たして本当にそうなのか?問題を書いていく。


上の話だけを聞けば、「人生の約半分は仕事。あとの半分がプライベート。プライベートを重視!とはいえど仕事あってのプライベートであり遊びであり、仕事がなければプライベートも無いよね。」というようなありきたりな”普通という名のシステム”に囚われた言葉、なんだか聞いたことあるような言葉。そういうおもんない事を言わないようにしていく必要がある。

24時間のうち12時間は仕事、であるならば確かに時間としての12時間は24時間の半分、それは間違いない事実。しかし人は本当に時間の流れを半分に感じているのか?ここからは時間の流れを感じるための意識の部分の話になってくる。


例え話をする。

・私は今、信号待ちをしている。あれれ、なんか今日の信号なかなか青にならないな。え!マジでいつまでたっても青にならないぞ、あ、今なった。なげー。なんだこれ。

・私は今、時計の秒針を見ている。それはG-SHOCK的なデジタル時計かもしれない。どちらにしても見ている(意識した)スタート地点によっては1秒の流れがやたらと早い、もしくはやたらと長い、気がする時がある。

・私は今、めちゃくちゃ忙しい。やることがいっぱいだ。午前中のうちにこれだけの事をやらなければならない。あ~やっと終わった。え!午前中こんなに動き回ったのにまだ12時?午後もこんだけ時間あるのか、なんか得した気分。(もしくはまだ動かなければならないと、どっと疲れる)どちらにしても日常に比べるとなんか時間の流れが違うなあ。

・私は今、とても楽しい遊びをしている。(ここからは上の例と同じ)


こういった例え話、誰しもが感じた事があるとは思う。今回の鍵(キー)はここにある!気(キー)がしている。

話を戻す。24時間のうち12時間は仕事。それはそうだ。しかし残り12時間、さらに完全休日の12時間。遊んでいる時の12時間、信号や時計を凝視し続けているだけの12時間、ドラゴンボールの精神と時の部屋にいる時の12時間、人は果たして12時間の流れ方は同じ感覚で捉えるか?違う、と断言できる。となると、上に書いた「12時間働くならば人生の約半分は仕事」という暴論は崩れることになる。よっしゃ〜!となると、俺たちはどういった意識をもって仕事の時間を向き合えば楽しく面白く幸せマインドになれるのか?が分かってくるような気がしてくる。

「人生の半分は仕事」というのはあくまで時間を平面的、ただの数字としてしか意識できていない。時間は流れ続けているという概念である。その流れを意識し知覚しうるのは人間の頭の中だ。植物が感じる12時間と人間が感じる12時間は違う。細かく言えばキリはないが、昆虫(の中でも昆虫によっても)と人間でも違う。これは「環世界」という言葉で言い表せる事ができるけどもあまりに寄り道となるので「環世界」に関しては詳しくは調べてもろうて。とにかく時間の流れは一定ではない、という事が言いたい。

これを前提として、幸せマインドになるためには?

仕事の12時間というその仕事への意識をもっとゆるやかにピントをずらしてボヤかしていく。ピントを合わせるのはあくまで残りの12時間であり、もっと言えばそのピントをボヤかせた状態を続けて仕事の12時間なのか、残りの12時間なのかの境界線を曖昧にしていってみる。


そして時間のピントをボヤかせられたなら、ここからまた別のイメージも描いてみる。仕事が12時間、残りが12時間、という半分ずつのイメージ(図左)ではなく、24時間自身の生活を中心とした円の周りを”稼ぐ”という動詞が衛星のように回り続けているイメージ(図右)をしてみる。あくまで生活が中心だ。12時間仕事をしているから残り12時間が自身の生活というイメージになると大変苦しいことになる。あくまで生活という円も周りに全ての事象(図には稼ぐと遊ぶだけを書いた)がぐるぐる回っているイメージ。そうすれば24時間全て自分の生活だ。その生活にただ”稼ぐ”という動詞が仕事というラベルを貼られて漂っているだけである。

仕事っていうものは厄介だ。すぐに俺たちは囚われてしまう。だからこそこのイメージ図を忘れないようにしていきたい。これが仕事に囚われないようにする為のサバイブ術である。

ちなみにこれを書いている俺は職場のPCでキーボードカタカタと書いている。囚われているのは誰だ?俺なのか?いやまだ多分大丈夫。油断したらすぐに囚われるぜ!

では今日も囚われないようご安全に。


11.06.2024

雑記集6

11月初めての更新。寒いな。忙しくしている基本仕事で。寒くなると忙しい。いやだなーずっと暇人でいたいのに。。。まぁ暇人っぽく振る舞えられたらいいか。なのであまり更新できなさそう。営みとしてできるだけ書くとして。なんか書きたい事結構あった気がするんだけどなあ。忘れっぽいな短期が特に。また思い出すでしょう。あーそれにしても寒い特に夜が。焼酎湯割りにしようかなあ。
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自然や街並みの大きな風景を見て感動するという事は、大人に比べると子供はあまり感じないような気がしている。自分の周りに子供がそんなに多くないからデータとしては少ないけれども。
それはなぜか、を考えていた。
それは大人に比べて子供のほうが圧倒的に普段から遠い(もしくはとても近い、深い)目線、広い世界を見ているからだろう。だからこそ大きな風景を見ても感動が少ない。逆に大人は普段とても狭い世界を見ている事のほうが多い。それは社会的な狭さでもあるし、悩み事のような心の狭さでもある。がゆえに大きな風景を見て一時的な解放の場に感動しやすい。
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仕事中の昼飯なんだけどね。外食することもあるが毎日はお金がもたないのでスーパーでお弁当、時間が無ければコンビニにする。んじゃコンビニのときに何をセレクトするか。できるだけ汁ものは欲しいんだ俺は。いつも身体の内側を温めておく必要がある。んじゃカップラーメンか汁のみのやつになるよね。それプラス、ベターはおにぎりだろう。そのおにぎり何にしようか。俺は迷わずいつも赤飯おにぎり。なんでだろう、いつも赤飯を選ぶね。今日もうまいな赤飯mgmgしながら適当に書いてみたmgmg。

10.25.2024

「ニトラム NITRAM」




















「ニトラム NITRAM」@自宅 映画.comリンク
96年にオーストラリアで起こった銃乱射事件(ポートアーサー事件Wikipedia)を主題、その犯人を主人公として撮った作品。
めちゃくちゃ刺さった、、、。
自閉的だが世界に意識が向いている息子。同じように世界を向いている父親。それを理解できない真逆の母親。父親以外で初めて出会った同じ世界に入る事ができる異性の存在。

俺は選んで離れて暮らしているから他の親子と比べりゃ時間は少ないけども。息子とできるだけ同じ世界に入り続けよう、そして彼をリスペクトし続けよう、と思った。

インターネットサーフィンとは何か?

スマホ時代になってからのインターネット上での人間の意識をイメージ化してみる。

調べたいことができた、よしググってみるか。あぁ、見つかったわかった。ピントの合っていないふわっとした話題を調べる。あぁ、知恵袋で同じこと聞いてる人いた。なるほど、まぁなんとなく他の人の意見少しわかった。(わかった気がしてるだけ)SNSでアップされている興味をそそられたURLを踏んでみる。ふむふむなるほど面白い。まぁそれだけ。そこから掘ることは無い。以上。
THE 閉ざされたインターネット って感じのする動きなんだよな、どれもこれも。

では、本題「インターネットサーフィン」とは何か?

ダイヤルアップ、ISDN、テレホーダイ、ADSLの時代をイメージ。(イメージできない人は退出してもいいぜ。)このサイト面白いなぁ、興味がそそられる。。。そこのリンク集がまた好きから好きが繋がっていき興味関心が尽きない。うーん、この言葉の意味がわからないな、調べよう。なるほど、そういう意味で使われるのか、となるとこの繋がりある言葉も知りたいな、、、ん、なんだこのホームページ、めちゃくちゃマニアックなにおいを感じてゾクゾクするな、なんだこれは、世の中こんな世界があったのか、もっと調べよう、おぉすげ〜これ自分でも今からやってみようかな、これやるにはここアクセスしてこのフリーソフトダウンロードすればいいのかな、この人こんなこともやってらっしゃるのかカッコいい、あBBSがあるから覗いてみる、あまり書き込みはないけれどお客さんの書き込みに毎回ここの管理人さんがしっかりと返信して下さってる真摯な方だなあ、俺も書いてみようかな恥ずかしいし文章なんて書けばいいかわからないからまた今度にして、リンク集みてみよう、おおこのリンク先のバナーの人かっこいいなこの管理人さんもおすすめされてる行ってみよう。

そう、これが俺達のインターネットサーフィンだ。自分の興味関心、そしてネットの世界に没入している自分自身の意識のフロー、その情報量の流れ。その波に乗り、たまに何も考えずに身を委ねてみるということ。

Instagramここだけ話

フジのお昼の番組、小堺さんの「ライオンのごきげんよう」内のサイコロトークみたいなBlogタイトルになってしまったな。あんなまで不安定なサイコロはなかなか無いよなぁ。あぁまた横道逸れそうだし、ごきげんようは置いておいて。

Instagramで、さらにストーリー機能の部分。ポチポチさくさく手軽だね。てか最近プライベートな投稿ってストーリーにしか上げない感じなんすかね。あれいつからの流れなんだろうね。まぁいいか。ひとまず今日はInstagramのストーリーについて、書きたいことが2つある。


1つ目。

ストーリーの投稿で動画のアップでその動画に音声付いているのは動画だしその動画ファイルの環境音であり、何も思う事はない。が、例えば写真に(((わざわざ)))(わざわざを強調していきたいと思っている)音源を選択して好きな音楽?聴かせたい音楽なのか、その投稿に合わせた音楽なのかを付けているタイプの投稿。あれねえ、シンプルに音がデカい事多くてびっくりするんだよな。動画に付いてる音声や環境音(それはライブ映像などの音も含めて)はそれほど主張してこないんだけど、(((わざわざ))))音源選択しているタイプの投稿の音、ありゃもうほんとううるせー。だってね、Instagramのストーリーはポチポチさくさく流れで見ていくわけでしょこっちは。その時に急にバカでかい音が鳴られるもんだからさ。俺はこうした(((わざわざ)))音源付き投稿をされる方のことを、他者の「音」の部分に対して無粋な人なんだなと感じている。

ちなみにこれを仕事中に職人Wさんと雑談の中で喋っていた。「俺は藤井くんの事よく知ってるから今の聞いてもなんとも思わないけど、人によっては嫌な気分になると思うからあまり言わない方がいいよ。」とアドバイス。そうかもしらん。ただ、ここは俺のUnderground Blogなのでええやろと思っている。


2つ目。

2つ目は美学の話。

ストーリーを投稿する時は多くを語らず写真だけで「凄み」を出していく。

これに関しては実例を用いて説明していく。

まずこの記事。

「世界に一つだけのボク」 SAPAグルメ名物の『アメリカンドッ君』って知ってる?

https://gazoo.com/column/daily/23/03/12/

先日、俺たちはこのアメリカンドックを遊びついでに東名のサービスエリアへ立ち寄り食べにいった。

で、その時の写真をInstagramのストーリーにアップするというシミュレーションをしてみる。




まぁ、ありがちなストーリー。だめだめこんなんじゃ。
ええとね、なんでも説明すればいいってもんじゃない。映画でもさ、やたらと説明っぽいセリフ多かったりして興ざめする映画あるでしょ。せっかくビジュアル良いのにセリフのせいで台無しパターン。俺が言いたいのはそういうことで。
んじゃ「多くを語らず写真だけで凄みを出す」をやってみる。



これだ。
写真だけでも、アメリカンドッ君という存在、そしてケチャップを使って吐血させてみた。というギャグセンスをフォロワーには分かってもらえるはずで。わざわざそれを説明する必要は無い、ということ。説明すればするほどピュアな面白さは減っていく。
これからはストーリーを投稿する前にこの言葉を思い出してみてほしい。
「多くを語らず写真だけで凄みを出す」

10.18.2024

雑文集5

新札の登場により、今までは財布の中のお札の上下裏表を合わせるだけだったのに新旧札でフォルダ分けまでしなければならなくなった。
つまり、2倍(上下裏表)の2倍(新旧)で手間の2乗となった。
こういうところが几帳面なんだ俺は。
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森茉莉さん『貧乏サヴァラン』を読んで。
「楽しい」という事は「楽しもうとする姿勢」、つまり能動的に「楽しい」を見つける、思う、事なんだろう。
受動的な「楽しい」は本当に楽しいの?
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同じ世界に入る、お互いのリズムがシンクロしていく感覚。
会って、会話して、同じ世界に入っていくまでの時間が短い、それはとても仲が良いことの現れだと思う。
同じ世界に入っていく、シンクロしていく。でね、この感覚を誰かに話したとする。そしたら、その2人の関係を「依存」と評価を下し、「あまりひとりに依存しないように。そういう対象は散らばせたほうがいいよ。」などとありがた迷惑なアドバイスをしてくる他人様がいるけど。そう言ってしまう方って、人とシンクロして同じ世界に入るって経験が少ない(もしくは一度も無い)のかなぁと感じる。そしてこの「同じ世界に入る事のできる関係」は決して「依存」ではない、というか「依存」という言葉が適切ではない。「依存」とは自分のこころの揺れ動きを示す言葉であり、2人の関係性を表す言葉としては不適切のように思う。
、、、うーんもうちょっとこれは整理する必要があるし、ここから更に「所有」について書いていく必要があるので。気が向いたら続きを書く予。

10.16.2024

雑文集4

職場で月曜日に水を飲んでいると二日酔いだと勘違いされる。
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頭が回ってない日の出来事。
その数字が何ケタあるのか確認する時、
「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん」
って数えていた。
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投票行くんダルいねん、まぁ行くけど。。。
なノリで自分はいつもいる。それくらいでいいと思ってて。たまに浅いやつみたいな認定されるけど、ふーんそうなんですねクソどうだっていい。みんな気にしてる投票率だってさ、これくらいのバランス感覚がもうちょい世の中に浸透すれば自然に上がるでしょ。(でも投票率上がらないほうが都合が良いんだろうね。)当たり前の様に、え、投票行ってないの?投票行こうぜ声を上げよう!と言われても、行かない人らは行こうと思わない。だってダルいやん。日曜だよ投票日。予定があるんだよこっちにだって。投票日だって急に決めやがって、行けるわけないだろう?投票日だからって予定変更したくねーし。みんなさぁ投票が好きなわけじゃないだろう。(投票が好きになっちゃってる人いるけどね。おい目を覚ませ。)期日前投票は前よりやりやすくなったけどね、それでも平日に投票如きに仕事抜けてわざわざ期日前投票行くほどの志し持ってる人どれだけいるんすか。できたらさぁ、期日前投票の期間中は24時間開けておくとかさ、してくれたら行く人(行ける人)増えるって絶対に。その24時間の夜勤の仕事だってさ、やりたい人たくさんいるって絶対に。
とにかくもっと楽に投票させてほしい。投票って言ったらなんかメディア、街全体、会話の中で、一種のイベントみたいなテンションにさせてくるけども、、、。出掛けたついでにもっとサクっとやらせてくれ。今だと投票を目的として出かけなきゃいけないでしょう。

などなど悪口言いながらも、だりーけど今回も期日前投票へ行く。日曜日に遊びたいからね俺は。とにかくそれくらいで良いよ投票なんてもんは。まあ行けるのに行かない選択肢はもっと無いけどね、ただそんな張り切らなくてもいいよ、という事を伝えたかった。

10.11.2024

なぜ銭湯ブームなのかを考える

この前、銭湯いって考えていたんだけど、今なぜこれほど銭湯ブームとなっているのか。サウナブームとも言えるけど、とにかく間違いなく銭湯ブームだろう。お客さん増えたよね?かなり。この何年間か。で、俺わかった気がするんだよね。理由。ずばりスマホだ。
今の時代、老若男女みーんなスマホでインターネット接続されっぱなしの時代。ポケットや鞄に入ってるスマホ。いつ鳴るのか、通知か連絡か。仕事の連絡か、家族からなのか、友人知人の連絡か、気になる人からなのか、メルカリ発送通知か、入金催促なのか、メールなのかLINEなのか。その他アプリの通知なのか。通知じゃなくとも自分からSNSでも見るか。周りが気になるからなやっぱ。情報チェックしないと。音楽聴こうか、ドラマでも観るか。特になんかしたいわけちゃうけどあれれ無意識にスマホ触っているのか。まぁとにかく触ってる時、触ってない時関わらず、現代人の意識はスマホのおかげであっちこっちいってるわけで。スマホが無い時代はどうだった?自分の意識が今ここ、この場所、この時間、目の前のあなた、そしてわたし、わたしが見ている風景、匂い、聞こえてくるもの。現代よりももう少し自分を中心とした半径に近い範囲に意識があったはずで。それがスマホの普及、インターネットの表面化(アングラでは無くなった)によって、全ての社会が繋がってしまったことにより人間の意識が自分から遠くへ離れてしまっている。これは現代病なのか?人間の進化の過程なのか?そこは今回の話では脇に置いておいて、とにかく現代人はそれに疲れてしまっている、という事。

銭湯ブームの話に戻る。
現代では上に書いたような事が起こっている。スマホに疲れている。とはいえ手放す事などできない。では、銭湯に入る時はどうか?スマホを持って風呂場へ入るかい?盗撮とかの兼ね合いもあるゆえスマホ持って入れないはずだし誰もスマホなんて持っていないだろう。風呂場でスマホを(半ば強制的に)手放した人間の顔を見てみよう。みんな幸せそうな顔をしている。銭湯だとみんな優しくなるだろう?普段、外側(銭湯ではない場所)ではあんな険しい顔している人も銭湯では優しい顔をしているし、余裕が出ている。他者に対してもとても親切になる。心と心が通じ合うような気がしてくる。原始的な心の気持ちになる。みんなそうなんだから平和だろう。そこにはスマホが無いからなんではないか?自分を中心に意識が回っているそこに有る、ここにいる、この時間を大切に、であれば共有している他者に優しく、となっているのではないか。

結論。なぜ人は銭湯へ行くのか。半ば強制的にスマホを取り上げられる場所へ行く事によってスマホから解放されたいのではないか。似たような場所だと映画館もそうだろうね。映画館でスマホ触るような不届き者いないでしょう。スマホが触れない、意識が向いていない、からこそ映画館で観ると映画を集中して観る事ができる、ゆえに映画館で観た映画体験というのは自宅では体験できない映画体験となる。

集中する、ということの素晴らしさ、気持ち良さ、を忘れかけている現代人が、集中を求めて銭湯やサウナへ「意識の整い」を求めに行くのだろうか。どうだろうか、仮説となるか、いや俺の適当な思いつきに過ぎないか。

10.10.2024

「祭りの準備」


「祭りの準備」@自宅
当時新人として出演されていたらしい桂木梨江さん魅力的な方だなあ。